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チッソは1932年(昭和7)年からアセトアルデヒトの生産を始め、1968年5月の生産停止まで(国の公害認定は同年9月26日)、メチル水銀を含んだ廃水を無処理で水俣湾に流し続けた。水銀量は、実に70~150tと言われている。まさに水俣病爆心地である。
1956年~1957年に、水俣病発生の原因が工場廃水にあるという声が高まると、チッソは排水口を水俣川河口に変更した。1958年9月~1959年10月、この間不知火海一帯に汚染が拡大し、水俣川河口では魚が大量に浮かび、御所浦ではネコが狂死し、水俣市の北隣の津奈木町でも患者が発生した。チッソは、後に「人体実験」と非難されることをやってしまったのである。
1957年、厚生省は水俣病が水俣湾内の魚介類を多食することによって起こるとわかっていながら、「湾内の魚介類すべてが有毒であるという証拠がない」ということで食品衛生法を適用しなかった。
そのため、漁獲禁止措置はとられず、「自粛」を求める行政指導にとどまった。
排水口近くに船をつないでおくと船底にフジツボが付かないので船の手入れが省けるなど、海に生きる人々は、工場廃水が、海を汚し、海の生き物に悪影響があることを、生活の中で感じていた。
安全なことを確かめて排水を流していれば水俣病は起こらなかったのだ。
(注:水俣学ブックレット No.3「ガイドブック 水俣を歩き、ミナマタに学ぶ」より一部抜粋) |