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かつて5,000人近くの従業員が働いていた水俣工場は水俣の街の中心に位置し、「繁栄」を示すものであった。
1927(昭和2)年10月7日に開業した鹿児島本線水俣駅は、チッソの正門真向かいに作られた。現在も国道3号線を挟んで工場と向かいあっている。
門の前に立って工場を眺め、チッソの幾多の歴史に思いをはせてみよう。1959年11月2日、工場廃水の排出停止を求めて不知火海漁民達が突入したのはこの門であった。
同年11月27日から、被害補償を求めて患者互助会の患者達が座り込み、それはかの有名な見舞い金契約(12月30日)に帰結した。また、1962年からのチッソの安定賃金争議の折には組合員達のピケットラインがはられた。
1971年、川本輝夫、佐藤武春両氏を中心とする自主交渉を求める患者達が1年8ヶ月にわたり座り込んだ。1988年には、『限因裁定』を求めての患者座り込みがなされた。
そして、最近では2005年9月、出水の会の患者達が謝罪と被害補償を求めて座り込んだ。チッソはそのつど冷たい対応をしてきた。水俣病認定患者のための「患者センター」の入口は、正門から北へ50メートルほどにある小さな通用口である。いくつもあるチッソ水俣工場のうち正門は、水俣病患者に冷たく立ちはだかるシンボルであった。現在では、チッソは学校生徒や外部の人たちの工場見学を受け入れている。
(注:水俣学ブックレット No.3「ガイドブック 水俣を歩き、ミナマタに学ぶ」より一部抜粋)
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